床暖房、全館空調、薪ストーブ、暖炉

 いずれは家を持ちたい。とてもいまは現実的な考えではないが、快適な家に住んで快適な暮らしをするのは、人類誰しも思うことだろう。

 そういうわけで、家に関する情報をあれこれと集めたりするのだが、最近気になるのは空調のことである。全館空調がコスト的な面では良さそうだ。手間もかからないし、あれやこれやと追加の空調設備を買う必要はない。しかし高気密高断熱の家に私はあんまり住みたくない。まるでシェルター空間に住んでいるかのようで、わざわざこの地球に住んでいるのに、宇宙空間に住まうかのように外界を遮断するのは違和感がある。

 美観として優れているのは、火を使う暖房設備だ。薪ストーブと暖炉。薪ストーブは機能的だ。料理に適したモデル、デザインのものもある。暖炉で料理というのは少し考えづらい。しかし家に一体化させ、高級感を出すならば暖炉ほど美しいものはない。地続きの家に、地続きの設備だ。

 暖炉に足りない空調効果を求めるならば、床暖房ほど優れたものはないだろう。吹き抜けを採用すれば、どのような空調でも効果が劣るが、しかし床暖房ならばその心配もない。むしろ、床暖房と薪ストーブを併用すると部屋が暖まり過ぎるのではないかという危惧もある。薪ストーブを熾すのが面倒なときもあるだろうから、手軽に暖められる床暖房は理想的だ。

 床暖房は必要だ。それに加えて、薪ストーブを用意するのか、暖炉をしつらえるのか。結論は出ていないから、やがて建てる家の建築士と相談しながら決めたい。もっとも、自由に設計する予算があればの話だが。

美しい日本語

 美しい日本語とは何だろうか。それはどのようにすれば身につくのだろうか。

 文学をずっと研究してきた。主に規範を学ぶこと——考えることが私の研究分野だが、そこに美しい日本語を読み書きすることは必ずしも求められていない。伝わる文章を書けば良い。それが研究における文章作法だ。理系、文系問わず、美しいことよりも、伝わることの方が大切だ。

 しかし美しい日本語というのは存在する、はずだ。美しい英語やフランス語、それに漢文が存在するということを私たちは知っている。それは韻律が調えられ、同じことばが同じ段落に現れるのを避ける傾向があるといった共通の名文から、複文を好むフランス語、字数を合わせる漢文といったようなその言語に特徴的な美しさというものがある。

 では果たして、日本語にそのような規範的な良い文章というものがあるのだろうか。諸外国語でとり入れられている文章作法を日本語にそのまま適用させて良いのだろうか。

髪の毛を美容院で切った

 今日、髪の毛を美容院で切った。すごい久しぶりに美容院で切った。地元に居たときはずっと美容院だったけれど、こちらに来てからはずっと理髪店で切っていた。なぜ理髪店だったかというと、勘違いしていたから。それからはヒゲを剃って貰えるからという理由もあって理髪店を使っていたけれど、こちらで最初にそのお店を選んだのは、メンズ向けの美容院だとばかり勘違いをしていたからだ。

 それから何度か美容院で切ってもらうこともあった。だけれど、女性に切ってもらうのが少し慣れなかったりして、足は遠のいていた。

 今度行ったところは、とても気さくな男性が髪を切ってくれて、しかもとてもおしゃれだと感じた。——そして私がとても嬉しかったのは、髪を切ってもらいながら、前に切った人を褒めていたことだ。「とても丁寧に切られてますね」。そう言ってもらえて、何だか自分のプライドも守られた気がした。おそらく来月、またあのお店に行くだろう。

筆者の語について

 「筆者」ということばがある。ご存知だろうか。定義は「その文章・書画をかいた人。」(『日本国語大辞典』)である。「その文章」とは——。
 小論文の文章指導をすることがあるのだが、その際に「筆者」は基本的に三人称であるから、あまり一人称で使わない方が良いと伝える。それは一人称で用いられることも多いからだが、私も一人称で「筆者」を用いたいときもある。それは引用文に注を加えるときだ。ブラケット=角括弧を使って注を加えるのだが、そのときに「神[注——自然のこと]」とでも注を加えたいときに、その注の前に筆者注と入れたくなるときがある。
 この場合は「筆者」ではなく「引用者」に変えれば良い。では、凡例を書くときはどうしたらよいか。これはもう、主語を省略する方法が一番スマートなように思われる。「漢字は適宜、筆者が改めた」よりも、「漢字は適宜改めた」だけで充分ではないだろうか。
 ともあれ、やはり「筆者」は「その」であって、「この」ではないから、三人称的に用いるのが良いのだろう……。

悪夢

 悪夢で目が覚めた。深夜2時。そこまで深い夜でもないけど、それから夢を解釈したり、いろいろなところに思索が飛んだりして、寝付けずに深夜3時。未明から明け方へと時間帯も変わっていく。
 夢の内容はどんどん忘れていく。どうせ良い夢ではないのだから忘れた方が良いのだろう。問題はなぜこういう夢を見るのかという原因の問題なのかも知れないけれど、それとて私にはどうしようもないことが背景にあるから、この悪夢の苦しみは、ただ受けるしかないだろう。
 記述は、さまざまなことを省略している。そのとき限りの思考がそこに刻まれているから、読み返すことも基本的にはしない。作者にとって最大の苦痛は、自己の作品を自ら要約し説明することだと聞いたことがあるが、蓋し名言である。