授業の面白さは評価できない

 いつも楽しい。楽しいし、好きだ、それが前提の上で読んで欲しい。これはある友人との会話で感じた話だ。昨日の2限の先生の話は大して感動もなかったし、なかったのだけれど、会いたくなかったというようなことはなくて、むしろ会えて良かったと思っている。ああいう人と会える機会はなかなかないし、それで話して自己の身を顧みるということもなかったけれど、何というか、私たちの学の領域の一つとして、生きている1人の話として、それは私にとって良い経験であった。

 そもそも、人に期待をしていない。最近は、真理が何かということにも深い興味が起きない。これがニヒリズムであるかと言えばそうなのかも知れないが、しかし絶望もしていない。むしろ日々の欲求と、それに必ずしも従えない背反する自己というものを観察しながら、なんとなく最善と思われる選択肢を選んでいる気持ちになっている。

 Alternative possibility. こういうことばを論文で使ったことがある。そのときは他行為可能性として翻訳した気がする。一般に選択可能性として翻訳される。それはあるのだと措定できるが、しかしそれを意識して行使することはめったにないし、何らかの事実は常に隠されているし、一定の情報は処理しきれず、私たちの肉体は意欲に背く。それでも、もし私たちが何をやらかしたらそこに責任を求めようとする。それは当事者もそうでないものもそうである。

 議論が直線でつながっていかない。錯綜している。

 最初の議論に戻ろう。私たちは2限の授業がつまらなかったことで後悔するかも知れない。しかし、私たちは2限の授業がおもしろくないということを知らなかったのだし、2限に講義をしてくれた人は、私たちが何を求めているか分からなかったのだ。それは日々、教壇に立って、教えている人ではないからだ。私たちはそれから学ぶことはいくらでもある。

 彼がどういう環境において、どういう活動をしているのか、それは極めて重要な知識として私に吸収されたように思えるのだ。日々、そういうものだ。漢文の法則だとか、このことばが他にどこに出てくるかだとか、そういうことばかり気にするのが私たちの学問だと思ってはいけない。1人の解釈者がどのようにして生きているかということも、大変な興味の一つであるのだ。そこから会話、関心を広げていく、共通のことばを持つ、それが授業という契機であると、このように考えてみたい。